メフィスト「追悼 殊能将之さん」を読んで

 

 異能ミステリ作家殊能将之氏が2月11日に亡くなられていた。享年49歳。
 ウェブ上のアーカイブで日記などを読み返している。音楽、アート、小説、料理などなど多岐に渡る上に深い知識と鋭い分析をキレのいい辛辣かつユーモアあふれる文章でつづられ時の経つのを忘れてしまう。お気に入りのウォーレン・ジヴォンより7歳も若く逝ってしまわれたのだなあ。
 メフィスト2013年Vol.1に法月綸太郎氏と大森望氏による追悼文が載っていることは知っていたので、これを確認してから文章を書こうと思っていた。大森氏の文章には僕には懐かしく殊能氏と関係の深い人物の名前が登場する。かといって殊能氏と僕は面識があるわけではない。ある意味すれ違ったことがあるだけなのだが、そのため僕にとっては大変特別な作家になった。もちろんそれは熱心なファンと変わらない立ち位置であり、以下の文章も多分に個人的なことでしかも長くなるので、数多くいらっしゃる殊能氏のファンの方には興味の持てない内容に違いないことはお断りしておきたい。

 

 1980年代初め高校生の頃(今から読むと大した読書量でもないのに)僕はいっぱしのSFファンを気取っていた。中でも当時の時流でもあった硬派な評論をポップな意匠で届けるというスタイルのSF雑誌<SFの本>の登場に心を躍らせ、2号が出た時に付録の葉書にびっしりと熱心に書き込んで編集部にコンタクトを取った(何を書いたか思い出せない「何かやらせて下さい」みたいなことだったのだろう。若いって怖ろしい(笑))。それ一発で「編集部においでよ」と書いてくれたのがS編集長である。
 S編集長は今から思うと30そこそこだったのだが、その落ち着いた物腰は高校生にはSFのみならず世界の全てを知った賢人のように映り随分影響を受けた。S編集長は鷹揚な人柄で新しいことが大好きな人で<SFの本>の3号にはもう僕も書かせてもらっていた。SFセミナーやトーキングへッズ(ファンジン)の読書会などいろいろ呼んでいただき、現在SF界の中核を担っている翻訳家やレビュアーの方々にも沢山会わせていただいた。しかし何分潜在的な引き出しがないまま書かせてもらっていたこと、同世代の人が居なかったこと、受験がすぐに迫ってしまったことで勝手にこちらからフェイドアウトする形になってしまった。悔いが残っているし、大変失礼なことをしたと反省している。
 それはともかくその頃殊能氏になる前のT氏の名前をS編集長の口から聞いたことをはっきり覚えている。当時はネットやブログもない時代でファンジンそれからファンダム(ファンジンの出版やファン活動全体などを示す言葉)で活躍していることがSFの世界では注目の的となっていた。そんな中若手の有望株としてS編集長が挙げられていたのがT氏と喜多哲士氏である。大森氏の追悼文にあるようにT氏がS編集長の元に転がり込んだのは、僕が<SFの本>から離れはじめた頃のように思われる。もしかしたらどこかの場ですれ違っていたかもしれないが御挨拶をした記憶はないし、顔も覚えていない。

 

 そして僕は大学に入ってもSF研には所属せず(だってさあ新入生勧誘の時に一度聞いたら<SFの本>はよく知らんな〜」とか言われてショックだったのさ。嗚呼これまた若くて恥ずかし!)、サイバーパンクにはまれなかったこともありティプトリーショートショートだけは読んでいたものの30歳ぐらいまでSFは熱心に読まなくなっていた。1990年代末SF冬の時代と言われたその頃過去の名作SFの再読もままならない可能性が出てきて、少し焦り出ししばらくご無沙汰だったSFの名作を読むようになった。またインターネットの普及で面白い情報が簡単に手に入るようになっていた(掲示板の炎上、というものを初めて目撃したのもこの頃だ)。そんな中『ハサミ男』で殊能将之氏がさっそうと登場する。どうやら自分が少しは接点があった人物、しかもセンスの抜群な作家が登場したので非常に興奮した。音楽など鋭く新しいセンスが輝いていて、こういう作風の人が登場して欲しかったんだよ!といった感じがあったが、その経緯から個人的に10代の頃の幸福な体験が甦る楽しさもあった。殊能センセーは嫌がりそうだけど、自分にとっては青春の作家でもあるのだ。そして自分の読書歴では、本格ミステリが『ハサミ男』によって読めるようになったことは大きかった。それまでより読むことが出来る小説の種類が格段に増したのだ。またウェブ日記も濃密な情報と洒落の利いたコメントばかりで毎回楽しみだった。
 あらたな縁もあった。そういったわけでSF周辺がまた楽しくなり(それからいろいろ気晴らしをしたくなったこともあって)2006年から当ブログを開始したのだが、2010年1月号SFマガジンの感想で上に書いたサイバーパンクにノれなかった話を書いたところ、殊能氏と旧知でフロガーとして活躍をされているelekingさんにコメントをいただき、そこから親しくさせていただくようになりtwitterをはじめ、さらにこれまた殊能氏と御縁の深い舞狂小鬼さんともtwitterで頻繁にやり取りをさせていただくことになったのだ。殊能氏は名古屋大で名古屋を中心としたSFファン活動をされていて、実は大昔のSFセミナーで内気なSFファンたちの中で珍しく快活に話しかけてくださったすごく思い出深いW兄弟も名古屋関係の方々であり、何かと僕は名古屋関係の方と御縁があるのだ。
 その他に僕は高校時代に<SFの本>に出入りしていたので、(その若さだけが理由で)次期編集長と言われたこともある。で、こんな記事もあり、ん?僕の代わりにT氏がなったのか?などと一人で殊能氏との縁をキモいストーカーめいた遊びで喜んだりしているのであった。(近鉄ファンだったのも嬉しかったなあ)

 さてさておっさんの思いで話はさておき。作家殊能将之について最後に。T氏について大森氏は「含羞と韜晦の男」と表現している。あれほど優れた資質があったが、本気を見せることが少なかったということなのかもしれない。その若い死はあまりにも惜しいし、大作家や名翻訳家への道もあっただろう。しかし僕はポール派(ビートルズ)であった殊能氏に敬意を表し、殊能将之=アイドル説を取りたい。その死が伝えられてのファンの悲しみようはいかに殊能センセーが人気者であったかを示すもので、そのキャラクターが愛されていたことを示すものであったと思う。ありあまる知性が「含羞と韜晦」を生んだとしても、ネット時代に日記の料理ネタなど幅広い面が熱心なファンを生み出すことになり、その到着地点がアイドルであったとすればまんざら本人は悪くないと思っているのではないかな。すれ違ってましたが、今度は会いましょう!オイッス!

※当ブログとしては思いもよらぬ沢山のアクセスをいただき驚いております。お読みいただいた方々ありがとうございます。誤字などほんの少しだけ修正しました(4/8)

※また少し修正(追記)しました(5/1)
※またリンクして、そういえば後日談があることを思い出し追記します。この後2018年7月30日に山野浩一さんを偲ぶ会に参加し上記のS編集長にお会いしお詫びをすることが出来てホッとした。そこで意外な再会もあったりして「縁は異なもの味なもの」というのを実感しました。その辺はこちらに。(2019年9/29追記)