映画‘コズモポリス’

 クローネンバーグ監督の‘コズモポリス’を観てきた。
 主人公は巨額な金を動かす若き経営者。豪華なリムジンを使い、大統領の移動のためにひどい交通渋滞が続くNYを横断し、なぜか床屋に向かう。ゆっくりと進むリムジンには入れ替わり立ち替わり様々な関係者が出入りし、次第に不穏な様相を呈していく。
 車、ハイテク機器、Sex、銃、(主人公を狙う犯人の)汚れていているのに妙に生活感の乏しい部屋(‘スパイダー’を連想)などなどのクローネンバーグらしい道具立て、また人工化された肉体(主人公は健康を意識するあまり毎日健康診断を受けている)やそういった肉体における皮肉な反転(Sexより前立腺の直腸診の方が官能的に描かれている)などいかにもらしい表現が満載でいつものクローネンバーグ・ランドが展開される。原作は2003年発表で、ITバブルの崩壊時期だったが、その後リーマンショックもあり本作の主人公のアイデンティティ・クライシスはむしろ今こそ共有されやすい時代でもあり、テーマ的にも監督にマッチしているといえそうだ。リムジン車を流しながら話が進む形式中心の基本ワンアイディアの作品で、小品っぽい佇まいだが近年のクローネンバーグを楽しんできた身としては十分面白かった。思わせぶりな台詞、映像に登場人物に妙に図式化されたつくりにセンスの合わない人もあるだろうし、好き嫌いが分かれる作品だとは思うが、再見したくなる印象の作品だ。

 やや脱線するが、本作品で少しメタファーについて考えた。原作はドン・デリーロで未読なのだが、映画版にも再三登場するZbigniew Herbert(ポーランドの詩人) の詩の一部
 "Monday: stores are empty a rat is now the unit of currency." が引用されている。この「ラットが通貨に」という部分から、死んだラットを飲食店に放り込んだりラットの大きな人形を山車のようにしたデモが行われている描写がある。そして主人公は部下と一緒に「もしもラットが通貨だったら〜(死体の処理が大問題になったりして〜)」とか盛り上がって、唯一楽しそうな顔をする場面がある。全体がどんな詩なのかはよく知らないが、当然これはメタファーに違いなく、しかしそんな表現を「本当にそうだったらどうだろう」という方向に頭が向いてしまうのがSFのファンなんじゃないかなあという気がした。例えば「女は両手を鳥のように広げた」という表現があった場合、正統的な読解だと何故このような表現を使ったのだろうかと作者の意図を探るのが筋であろう。ところがSFファンだと「本当に羽が生えたりして!薬か!進化なのか!」とかどんどん妄想が広がっていくタイプが多いように思う。そういう意味ではクローネンバーグの即物的というかメタファーがずれていくセンスは実にSFファンに近いと思う。ただクローネンバーグはともかく、(例えば上記の羽の話でいえば)そういった妄想の増幅によって正統的な把握みたいなものが疎かになる場合もあるように思われるし、そうした正統的な読解をする人々と話がかみあわない危険性もある。そこはSFファンの欠点でもあるようにも思われる。