『人生の奇跡』 J・G・バラード

 昨年亡くなったバラードの待望の自伝が出た。早速購入して読了。
 自伝的小説『太陽の帝国』でも描かれているように、彼の作品世界は少年時代の第二次大戦前後の上海租界の風景にある。疫病・貧困・戦乱によりあらゆるところに死が蔓延した光景、暴力的な日本兵、撃墜された戦闘機、水のないプールなどなど。バラードは本書で丁寧といえるぐらいに自著の謎解きをしてくれる。それにしても精神面・肉体面共に過酷な環境で、現実は『太陽の帝国』以上の状況だ。また精神面では両親の庇護を十分に得られなかった様子も描かれている(ただし、それは他の少年たちも同様であったようだ)。基本的にはこちらが本書のハイライトだろう。
 ただそういった驚愕する内容はそれほどないもののむしろ帰国後の話の方が個人的には面白かった(上海の部分は実質的に作品に度々描かれているからかもしれない)。解剖の経験が豊富であることやクラッシュ』のヴォーンのモデルとなった学者クリス・エヴァンズとの交流などは興味深かったし、全体として幅広い体験や交流から試行錯誤を経て作家バラードが誕生したことがよく分かる。
 印象的なのは家族への思い。若くして妻に先立たれ、3人の子どもを育てたことは知っていたが、60年代のラジカルな時代と共鳴していたと思われるバラードとのイメージが一致していなかった。本書では多少そうしたつき合いがありながらも(いわばだらしない母親のようだった、と本人も書いている)、基本的には子育て優先であり規則的な生活を心がけていたことも書かれている。なんだか微笑ましいような話だ。ただし妻の死は相当こたえたようだ。そして上海で嫌というほど目にした上に、今度は妻に訪れた死を無駄にしたくないという強い思いが彼の創作を支えてきたという箇所もある。また社会に変化が必要なのだということも強く意識しているとも書いており、社会意識があり人への強い思いが背景にあるというのは自分のバラード観を変換させるものだった。
 裕福な出自ながら戦乱に巻き込まれ特異な体験をした少年時代から、苦闘をして不幸な運命も乗り越え家族への思いを深めながら新しい創作の世界を切り開いてきた姿は感動的だ。暴力と死にあふれた激動の20世紀を駆け抜けた不世出の作家バラードの経歴が実にらしく淡々とクールに描かれる名著。SFファンだけでなく第二次大戦に興味のある人とかポップ・アートに関心のある人とか子育てに悩んでいる人とか(??)幅広い層に手に取ってほしいなあ。
 他、収容所で一緒だった俳優ピーター・ウィンガードとかどんどん友人を失っていくエキセントリックなキングスリー・エイミスとかのエピソードも面白い。また挿入されている写真も自転車に乗っている少年時代のもの(自転車で上海をまわっていたのだ)、3人の子どもとのスナップショット、グラマラス(!)な妻メアリー(一方、後のパートナーの写真もあるよ!)などなど一枚一枚が内容と大きくリンクしているところも見どころ。

柳下毅一郎さんのところでバラードに関する話が新たに出ている。落ち着きのない人だったのかあ。あとデルヴォー好きなことはどっかで見たことがあったかな。デルヴォーねえ。正直嫌いなんだよね。現代を予見したかのような作風は注視に値するとは思うけど、現物を見たとき時に上手くないなあと思ってしまった。