ブレードランナーの思い出

  ここを見て、先日‘ブレードランナー ファイナル・カット’を観に行った。(伊藤計劃氏の批評眼はいつも素晴らしいなあと思う)
 当ブログの中の人物さあのうずは熱心な‘ブレードランナー
マニアではないが、公開当時に度肝を抜かれ、その時に何回か観に行ったし、ディレクターズ・カットも一回は観ている。DVDは今回予約をした(『ブレードランナー』アルティメット・コレクターズ・エディション)。
 以下はそんな人間の昔話もまじえた感想文である。気の向いた方だけどうぞ。
 東京、71982年 (どどーん)。 <いやその一度書いてみたかっただけ
 当時既にSFファンであったし、ディックの評価が高まっていた時期でもあったので、かなり楽しみにして、渋谷のパンテオンで確か公開初日に出かけた(何回目かの記憶はない)。今はその映画館どころか、入っていた大きなビルそのものがなくなっている(先日実際に見てびっくりした)。結果としては不入りだったようだが、キャパの大きかったその劇場に空席はなかったように思う。ただ、立ち見はいなかった。余談だが同じ劇場で同年12月公開の‘ET’は盛況であった。(前日から大勢のファンが泊まり込むような騒ぎはなかったんじゃないかな)ブレードランナー派であったさあのうずは、あまりの人気の落差に、一時スピルバーグと‘ET’を仮想敵にしていた。(その後‘宇宙戦争’で今度はそのスピルバーグに腰を抜かされるのだが)
 
余談が過ぎた。
 ‘ブレードランナー’ である。思わせぶりなセリフに一回では分かりにくい話。古い家財の中にSFガジェットが置かれるといったような観たこともないダークな未来風景が目の前に展開される。しかも悪趣味なアジアンフレイヴァーつきだ。観たこともない映像、と表現してよいのか迷いがある。なにせ当時15歳。それまで劇場で観た映画も二桁いっていたか自信がないし、TVでの映画すらそれほど観ていなかったのだ。まあ昔とはいっても物ごころついた頃からSF映画・ドラマ・アニメは日常的に存在していた世代だから、観たこともない映像という表現でも誇張はないかもしれない。とにかく一度観て圧倒されてしまった。たしかに初回公開版には問題があったのかもしれない(追記:監督自身がその後改編しているわけだからやはり意図通りではなかったのだろう。ただ個人的にはマニアの間で問題視されたデッカードの独白もラストも正直全く気にならなかった)。しかし、映画への批判がどうのという以前にあまり話題に上っていなかったように思う。ファンもメディアも反応が鈍かった、というのがその時の印象である。別に、先に正しく評価をしたという自負があるわけでもない。話はよく分からなかったし、もともと突き詰めるタイプではないので、謎を解明しようとも思わなかった。単にその気になりやすい少年が熱に浮かされていただけなのかもしれないが、それでも自分の感じたものと世間との温度差は強い印象として残っている。
 さてディレクターズ・カット版が1992年で、その後に観た記憶がないから、15年ぶりということになる。第弐位相を参照すると、仔細に手を加えられているようで、映像的に現代化がはかられた、ということのようだ。つまり、今の映画として公開されている、という状況に近くなっているわけだ。もちろん、こちらは既に映像やストーリーを知っているのだから、まっさらの状態で観るということは出来ないが、公開された当初に製作者の望んでいたかたちで公開されていたらこんな感じ、というようなことが意図されての現代化なのだろうか。まず、観て思ったのは、映像、ストーリー共にフィルム・ノワールの影響を強く受けているのだなあということ。また、変なアジア趣味、も米映画の流れとしては時代的にそんなに珍しいものでもないかなとも思った。観たことのない映像も少しだけ入っていたり、音楽の入れ方に違いがあったようにも思う(それには軽い違和感)。それらはマニアには既知のことなのかもしれないが。そして全体を通しては感じたのは・・・なかなかいい映画だなあ、ということ。何をいまさら、とお思いだろうが本当にそう思ってしまったのだ。なによりルドガー・ハウアーが素晴らしいし、ダリル・ハンナの熱演ぶりもいい。全体として、レプリカントらしさというものを印象付けるのに成功しているように感じられた。J・F・セバスチャンやおもちゃの兵隊たちの存在もアンドロイドを描くのに成功した理由と思われる。また、あらためて小道具がいいね。例えばフォークト・カンプフ測定器に黒い蛇腹がついていてフガフガ動くところのレトロ具合なんかとてもいい感じだ。ただストーリーとしては、デッカードの行きあたりばったりの捜索とか、ロイ・バディがタイレル社にあっさりと入れてしまうセキュリティの甘さとか、ゆるい部分もあり、すごく周到に作られた完璧な作品というものとは違うように思われる。あと以前からだが、日本語訳はちょっとさびしい内容。いいセリフも多いのに、反映されていない。
 結局、むしろ映像や雰囲気に浸かってぼーっと観て、ああいいなあというような映画として楽しんでしまう(あまりちゃんと観ようとしない不真面目なファンともいえるかもしれない)。好きなものをやっぱりいいなあといっている、それだけの感想になってしまった。しかし、そんな風にフラットな気持ちで‘ブレードランナー’を観る、という時代が来たのかもしれないと思ってもみたり。
 帰りのエスカレーターから見えた制作から25年経った東京の高層ビル群は、相変わらず映画とはずいぶん違っていた。