『トーノ・バンゲイ』 H・G・ウェルズ

 少年の頃のフィッツジェラルドも読んでいたという本書(『ベンジャミン・バトン』の解説より)。SFの父ウェルズの代表作で偽薬をめぐる成功と破滅の物語らしいと聞いて、その奇妙なタイトルと現代的な題材に俄然興味がわいていた。すると、とある古本市であっさり見つけたのでゲットし、さっそく読んでみた。なかなか不思議な作品だった。
 子供の頃から独自の視点を持っていて周囲となかなかなじめない主人公が、夢見がちな叔父の偽薬ビジネスに迷いつつも協力して成功をするが、結局は失敗してしまうという話で、大筋としてはそれほど複雑ではないが書かれ方は結構予想外。少年の日の孤独あり、ロマンスあり、叔父夫婦との深い愛情あり、転落を免れるための冒険あり、と小説的に盛り上がる要素が多々含まれるし分量としても多く描かれているのだが、それと負けないぐらい十八世紀国後半から十九世紀初頭の社会の考察を交えて描出にも分量が割かれている。若島先生のいうようにまさしく小説家と思想家が同居しているのである。しかもその思想家・社会学者の面は強く、私的公的を問わず社会のいろいろな面を欲張りすぎるくらい表現しようとしている様にも思われる。感心させられるのはその視点の時代を超越した冷徹ぶりで、貴族社会の風俗や習慣、当時のテクノロジーや文化、そしてその変遷といったことがもともと詳しくない当ブログ主にもなんとなく分かってくる。細部では偽薬の広告(イラストまで出てくる)とか売れていく過程とかかなりおかしかった。時代を伝えてくれる意味でも貴重な作品だろう。都市の俯瞰的描写により文明の姿が浮き彫りになっていくような場面が時々出てきて、そのあたりは近作のバラードのようでもあった。さらに下巻では、 飛行機の開発にのめり込む主人公が飛行機事故を起こしたりヒロインであるビアトリスに激突しそうになったりするところまであって あまりにバラードを思わせむしろ笑ってしまった(大して関連はないかなあ)。
 「私の小説の大部分は、軽い気持ちで、そして何かにせきたてられながら、書いたもの」(本書解説より)と本人がいうようにあまり洗練されているわけではなく、決して読み易いわけではないが、時代を描こうとした思想家の側面とその<何かにせきたてられた>小説家の面が合わさった実にユニークな作品である。