「明日の神話」とChim↑Pom

 渋谷駅にある岡本太郎の「明日の神話」に福島原発のような絵を加えて騒動を起こしたのはアート集団のChim↑Pomだった(関連の記事 http://alturl.com/bfvxo)。
 当初はオリジナルの一部と勘違いされ、原発事故を予見したものかなんて話題になった。 撤去される流れも含め、興味をそそられるものだった。(togetterにもいくつかまとめがある http://togetter.com/li/130065)
 冒涜、質が低い、売名行為など批判的な方も多いだろうしいろいろな意見があってしかるべき。オレ自身は素人なのでアートの出来自体の評価は出来ません。例に挙げられたバンクシーのこともよく知らない。だけど、この件で個人的に考えさせられるものがあった。
 twitterでまだ絵が置かれているときに騒動を知ったのだが、その行為に対し当初は拒否感が強かった。原発事故で苦しんでいる人たちに失礼な気がしたり、先行作品にのっかるような安易さがあるような印象もあった。しかし元々絵がない部分に置かれていたことなど、仕掛けた側の配慮も感じられた。今から思うとアート集団だからその辺は当然か。さらによくよく考えてみると、単に絵が置かれているだけなのだ。基本的には何かを壊したりしているわけでも迷惑をかけているわけでもない。そこで少し思い直してみることにした。
 あくまで個人的なことだが、価値観の転換に興味がある。今では当たり前のことがその昔非常識だったりする。当然現代において当たり前のことが未来にバカバカしい昔の人の慣習でしかないことも多いだろう。アートでも同じで、よく美術番組で扱われる「すすんだ芸術家のセンスが当時は理解されなかった」というパターンが語られる。でも凡百の個人としては、時代を越える新しい感覚のアーティストが登場した時に理解できる自信は全くない。今現在を生きるということは、現在出来たアートがクズか名作か分からないことにある。だからこそ面白いのではないかと思っている。そのため日頃から目の前にあらわれたものをもっと自由に見られるようにしたいなあと個人的には思っていて、それなのに今回自己規制をかけてしまった自分はまだまだダメだなあと感じたのだった。絵を置くことだけで騒動になってしまったのも(絵の)意味の転換ということになり面白い。あのタイミングで行ったフットワークの軽さは見事だと思う。
 これはあくまでも自分の感想で、繰り返すがこのChim↑Pomの表現を他の人がどうとらえるかはいうまでもなく自由。自分として上記のtogetterの意見で最も共感できたのは「太郎が生きていたら面白いと笑い飛ばしてほしいのは俺の希望」というもの。東京で仕事をしているのだからどうせならあそこに置かれているときに見に行くべきだったなあ。