SFファン交流会6月例会<とにかく、ラファティ >に参加

 SFファン交流会は近年時々参加させていただいており、3回目になる。今回はラファティ特集だ!
 前から当ブログに書いているように当ブログ主はラファティの良い読者ではなく、訳書についてはここ10年ほどまあまあ読んでいるが読了に時間がかかったりとまどったりすることがたびたびあり、時々の読書感想も理解者の方からすると随分トンチンカンなのだろうと冷や汗をかきつつ書いているわけである。ということで、今回は理解への糸口がつかめ、あわよくばラファティ達人への道を知ることが出来るのでは?と思い笹塚区民会館へ。さて、その結果やいかに!

 ゲストは牧眞司さん(SF研究家)、柳下毅一郎さん(翻訳家)、林哲矢さん(ファンサイト「秘密のラファティについて」主宰) 、 橋本輝幸さん(SFレビュアー)、鳴庭真人さん(海外SF紹介者)、魚さん(ラファティファン) (以上SFファン交流会のサイトより) 。それから司会の方(根本さん)。
 (以下まとめについては、ゲストによる皆さんのお話は多岐かつ深い話に及んでいたので全てを追うことは到底能わず、あくまで当ブログ主視点で印象に残ったものから脳内で再構成されたもので事実とかならずしも一致していないかもしれませんので、ずれの部分は適宜御指摘下さい)
 まずゲストの皆さんの初めてのラファティとの出会いについての質問があり、ジュディス・メリルの年刊SF傑作選や「九百人のお祖母さん」を挙げられている方がほとんどで、むしろ『どろぼう熊の惑星』でファーストコンタクトに失敗したという橋本さんの話が印象に残った(笑)。それから今回の企画は『蛇の卵』『第四の館』の2長篇が今年相次いで翻訳されたことがきっかけとなっており、その2作品への話となった。
 橋本さん「2つの長篇は超人テーマ、世界の危機など共通する部分がある。読み易く、カッコいい感じのラファティ。」
 魚さん「『第四の館』の方が筋が分かりやすいのでは。一方『蛇の卵』では子ども達が主人公でコミックの様な親しみやすさがある。」
 鳴庭さん「自分はゲストの中ではラファティの面白さについて質問をする役割と考えている。今回初めてラファティの長篇を読んだ。『第四の館』の神秘主義陰謀論の要素が入るところに引いてしまった。まとまりがつかみづらいと言う印象もあった。『蛇の卵』の方がSFとしてとらえやすい。2作品読んで登場人物がどんどん死んでしまったり、ラファティのそういったドライな感じは面白い。」
 牧さん「作品中の論理はラファティ本人のものなのか誰のものかよく分からないところがある。ラファティの小説は近代小説の枠組みを超えているように思われる。小説の中にラファティ流の論理があり、それに慣れると他の小説の方が作り物っぽく嘘臭く感じられる。」
 司会の根本さん「ラファティの小説では登場人物の様々な考えが登場するが、いったいラファティ自身はどの考え方なのか気になる部分もある。世界の終わり=ディストピアの様な話になるが、それは実は<はじまり>といったところもあると思われるが皆さんのご意見はどうか。」
 林さん「社会といったものに興味がなく、人間に興味があるといった傾向がある。ラファティ自身は『既に世界は終わっているのだ』と発言していて、もう終わっているから世界の終わりが来てもそれほどどうということはない、みたいなところもある」
 柳下さん「黙示録文学といった要素を含んでいる。ラファティが予言者である様な。」
 ここでラファティ翻訳家である井上央さんからのメッセージが読みあげられる。自分には少々難しく正直よく分からなかったが「マリノフスキーVSチェスタトンでいえば後者(フィクションに関する定義のような内容があったが把握できませんでした」「いわばアクの強いC・S・ルイス。ラファティは影の強さゆえ、現実感をもってくる」
 牧さん「C・S・ルイスは豊かなイメージ喚起力を有する優れた作家であるが、自身が敬虔なキリスト教信者であることと創作が融合しているところがあり、聖書があくまでもネタ元として使われている様なラファティとは違っているのではないか。」
 柳下さん「ラファティ作品でのキリスト教的な側面の評価はすごく難しいと感じている。『第四の館』ではそういう面で真面目に書かれているところは見られるが、外面的にいろいろ指摘出来ても真に分かることとは違うのではないかと考える。」

 キリスト教関連についてはどなたか忘れてしまったが「『蛇の卵』の前半は聖人伝の形式になっている。」「ラファティの文体は聖書の形式に近いところがある」といった指摘もあった。
 牧さん「(一般にはSF作家とされているラファティが科学技術をどうとらえていたかについて)科学技術はそこにあるだけ。それによって世界は良くも悪くもならないと考えている」
 林さん「その辺りは工学の人っぽい感覚。」(※ラファティは電気技師だった)

 途中休憩が入り、鳴庭さんOUTで、「未来の文学」などSFファンにはお馴染み国書刊行会編集者樽本周馬さんIN。
 樽本さん「ラファティには文章の面白さがあり、読んでいると他の作家がつまらなく感じられる。例えば野坂昭如を読んだ後に他の日本作家が読むのが退屈になってしまうのと似ている。」
 『第四の館』を訳された柳下さんへ、翻訳の御苦労や元ネタである『霊魂の城』との関連などについての質問。
 柳下さん「分からない部分について現在はGoogleなどで検索することが出来るのは助かる。例えばキリスト教組織と関わるところで実際の話と重ね合わされている部分と単なる冗談としか思えない部分が混在していたりする。これまで訳した『地球礁』『宇宙舟歌』はストーリーとして冒険もので基本的にシンプルともいえるものだったが、『第四の館』は訳しながら大変面白いなと思いつつも今回はなかなか難しいなと思ってもいた。当時のアメリカを真剣に憂う様なところも見られ、本気度が他作品より感じられるもどこまで本気なのかはやはり分からない。一番近いのは『トマス・モアの大冒険』。『霊魂の城』との関連については、たしかに強いもののさほど重視しなくてもいいのではないか。SFとしてどうかという点は難しいが、以前から考えていたSFとオカルトの本質が似通っているということを本書であらためて思った。」
 林さん「クラーク『幼年期の終わり』と共通する面も。」
 柳下さん「『幼年期の終わり』にもオカルト的な側面がある。」
 牧さん「例えば『幼年期の終わり』などSF作品との違いは、SFは<近代的な個人>から出発するが、ラファティはそうではない。神の摂理に従う世界が描かれているが、ともするとそれはニヒリズムに陥りがちだが、ラファティはそうならず<柔らかい運命との接し方>を提示してくれる。<受難>がテーマととらえられることも多いが、少しずつそれをずらしていくユーモアがある。そもそもラファティの到達した境地の前でSFかどうかになんの意味があるのだ!」(場内爆笑)

 魚さん「(ラファティの小説の主人公が一般の小説における主人公あるいは英雄らしくない点について)『第四の館』で主人公が世界のためにアイスキャンディが融けるのに必死に耐える場面があって、それが主人公の証であるというユーモアがラファティらしい。」
 牧さん「主人公に感情移入しないで本を読んできたので、ラファティは肌に合い非常に読み易い。主人公に感情移入しないと読めないという人達は近代小説に毒されている!」(再び爆笑)
 短篇集で入門としてどれがよいかという話になり、「タイトル作が読み易いとは限らない」「入門に最適と言われている『九百人のお祖母さん』にもわけのわからない作品はいくつかある」ことや林さんから<トールテール>との関連について言及があった。さらに牧さんからは「年寄りじゃないんだから若い人は硬い煎餅をバリバリ食べるみたいに『悪魔は死んだ』でも何でもどんどん読めばいい!」(またまた爆笑)
 それからラファティのとっつきにくさの一因として「なぜ登場人物が多いのか」については、
 牧さん「ラファティの作品は全て一つの世界が描かれていて、そのごく一部が小説になっているととらえることも出来る。」
 柳下さん「投げっぱなしなのか考えているのか分からないところがある。」
 最後に今後の翻訳についてインディアンの英雄についての歴史小説Okla Hannali が面白いのではないかといった意見が出ていたが、樽本さんから「何より『第四の館』がもっと売れないと国書刊行会でも次の話はなんとも」という発言があったので他の出版社のも含めラファティ
もっと買いまショー!

 
 といったわけでなんといっても随所で牧さん節炸裂!(笑)、大変面白かった。
 実はブログ主は鳴庭さんの意見に近い。気にせずどんどんラファティ世界を楽しんでいけばいいのだが、どうしても象徴だとかの部分つまずいてしまいがちである。不思議な事に『蛇の卵』の方が楽しめたというのもこれまた同感。
 しかしラファティの凄さについてはじわじわ感じつつある。今回も休憩中や終了後にお話をした青の零号さんから『第四の館』の深い楽しみ方の一部を教えていただきラファティの底知れなさを垣間見たので、未読の邦訳作品を手に入れたり既読作品の再読をしてみないとなーと思ったのであった。