『季節の記憶』 保坂和志

 鎌倉を舞台に5歳の息子を持つ作家の日常を描いた作品。穏やかな日常と息子や周りの人々の交流の中でゆっくり時は移ろい・・・ということで谷崎潤一郎賞を取ったりしてるんだけど、あんまりよくないこれ。
 まずはこの息子にリアリティがない。話していることが不自然に論理的で、実際には子どもとの会話はこんな風にならないはず。ちょっと変わっているが子どもにいろいろ教えようと真摯に向き合う父親という設定なのだが説得力なし。あと近所の兄妹が子ども好きでいろいろ相手をしてくれるというのもなかなか都合のいい話なのだが、その妹(若い女性)が「時間がどうたらとか言葉がどうたら」とかいって観念的なディスカッションに付き合ってくれるというのも不自然。たとえ気安い仲でもそうした会話をオヤジにされるとウザがられるのが普通(笑)。
 つまりリアリティを追求してる訳ではない人工的な話ということ。人工的な話なら、物語としての面白さがあるとか驚きがあるとか特有の美しさがあるとかのプラスアルファが欲しいがそれはない(鎌倉の自然の美しさというならエッセイか紀行文にしてくれい)。少しテーマといえそうなのは「子どもに書き言葉を教えるのが早い必要があるのか」ということかもしれない。「書き言葉」により子どもらしい大事なイマジネーションが限定されてしまうのでは?という問いかけがある(ちなみにこれ六本木の青山ブックセンターの<時間テーマ>の特集棚にあったけどそれをいうなら<言語テーマ>の方が合う)。まあ書き言葉で表現する小説でそうした問いかけをするのは画期的といえば画期的なのかもしれないけど、だからといって説得力はなくてスリリングな展開もない。あれこれ資料的な裏付けもなく頭で考えて強引につくったテーマなのじゃないかと邪推。
 この主人公、自分が離婚したのに離婚して鎌倉に戻ってきた女性が別れた夫の愚痴をこぼそうとすると「ナマナマしい話は苦手」といって逃げちゃうんだよね。この辺りに作者の本音が隠れている気がする。子育てなど日常をやっていくのにいろいろ鬱陶しい瑣末事をこなさないといけないわけだけど、そういうのを全部キャンセルして時間だとか宇宙だとかについての思索に耽りたいだけなんだよね。とてもじゃないけど好感が持てる人物ではなく、その子育て自慢を聞かされてもねえ。
 解説では養老先生が最後に本書の文章にダメだししていて、微妙な小説らしいオチがついている(笑)。 

 ※念のため補足しておくけど別に養老先生が批判しているから同感という意味ではなくて、養老先生の方も小説家でもないのに解説で不満を述べているのは図式としてどうよといった意味です。