第2回国際SFシンポジウム東京大会

 第2回国際SFシンポジウム東京大会を見てきた。世界から豪華なメンバーがシンポジストとして集まりSFに関してディスカッションを行うという素晴らしい企画で大変刺激的な内容だった。タイムテーブルは→http://sfwj50.jp/events/2013/07/isfs2-tokyo-20130727.html

 残念ながら所用のため第2部冒頭で退出してしまったので、残りはニコ動で視聴。しかも英語のリスニングは弱いので(現場には同時通訳あり)、とてもまとめられる状況ではないのだが、備忘録・メモのためあくまで個人的な視点で断片的に(上記の状況のため第2部は特にです)。というわけで間違い誤認等はご容赦。敬称略、肩書については上記HPを元にしました。なおニコ動については→

http://live.nicovideo.jp/gate/lv146340499

第1部「世界の中のSF翻訳」
 司会 
   デイナ・ルイス(Dana Lewis、翻訳家)

 出演

   沼野充義(文芸批評家、ロシア・ポーランド文学翻訳家、東京大学教授)
   高野史緒(作家)

   新島進(フランス文学者、慶應義塾大学准教授)
   増田まもる(SF翻訳家)

 ルイス「歴史的に翻訳を通じてSFは世界に広がった」
 沼野「SFに限らず翻訳よって広がった文化は多い。ソ連時代の翻訳事情について、進歩的で政治的に反共的ではないと評価された人達が紹介された(個々の作家を見ると反共的ではないかどうか難しい面もあるが)。安部公房大江健三郎川端康成などが紹介されていた。安部は何十万部も売れていた。小松左京星新一も翻訳されていた。筒井康隆は紹介に難しい面があったかもしれない。ペレストロイカ後は売れない可能性があるものはむしろ翻訳されにくくなってしまった。その中で過去から現代の日本SF作家を纏めて紹介するアンソロジーを刊行した(共編による日本作家のロシア語訳アンソロジー「彼」(男性作家編)、「彼女」(女性作家編)「ゴルディアスの結び目」などの書影が紹介)」
 沼野「ロシアSFの日本への翻訳状況などについて。元々ロシアはSFジャンルでは永年アメリカと並ぶ権威であり翻訳者として袋一平飯田規和深見弾らにより紹介されてきた。ロシア国内でもSFの拡散と浸透が進み、ソローキンやベレーヴィンなども主流文学者とされ、(SF翻訳者がいるというより)それぞれの作家に紹介者がいるといった状況になってきている。SF近年翻訳についてはあまり進んでいない残念な状況ではある。ただ東欧ということでは昔はロシア語を経ての二重翻訳によるものであったが、現在は様々な言語の専門家が登場し直接翻訳出来るようになった。『時間はだれも待ってくれない 21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集』(高野史緒編)は重訳なしという画期的なもの。レム『ソラリス』を重訳ではない新訳を行い、各国のレム訳者が集まり国際会議を行った。」

 新島(※詳細なハンドアウトあり)「歴史的には未来予想小説が第二次大戦前に隆盛しSFは国内小説が中心だったが、1951年から英米のSFが大量に紹介されるようになり主流となっていく。近年の話、『ねじまき少女』(バチガルピ)も翻訳され賞を取っている。日本も(海外小説の)翻訳大国だが、フランスも同様と言える。国内SF状況。基本的にファンタジー・ジュヴナイルの隆盛の影にある、スチームパンクが人気が強く、歴史改変小説ものも強い。非英語圏のSFは日本よりよく翻訳されている。日本からの翻訳事情。マンガ・アニメ中心。フランスではほとんどの日本のマンガ・アニメが視聴可能な状態。そういう傾向と関連するグイン・サーガ十二国記などは翻訳されているが、その文脈を離れると皆無といっても仕方のない状況。『ハーモニー』(伊藤計劃)は英語からの重訳で出る予定。フランスSFの日本への紹介は残念ながら乏しい。紹介の遅れていたヴェルヌの後期作品や最近の作家の翻訳を企画している。フランスの若者の日本文化の受容はユニークで、そういった若者が今後どういう文化を作るか大変興味深い」
 増田「小学生のころからSFマガジンでいい翻訳でアメリカSFの傑作を紹介されSFにはまるきっかけとなったが、後から見ると何十年も蓄積のあったSF小説群のよいところだけが紹介されていた。高校時代にJ・G・バラードに出会い、ニューウェーヴSFの道に進む。翻訳する立場から他の文学とSFの差。幅広い科学知識と難しい比喩を訳さなくてはいけないので大変。現代文の元は夏目漱石で、どうやってヨーロッパの文学を日本語に翻訳するかという課題の中から生まれたので、そこにはヨーロッパ的な文脈から古文を変形した要素がある。したがって現代文は翻訳文であるといえる。現代に関してはネット、ワープロで調べるのが楽になり、各国の文化の差が小さくなり特に英米文学の翻訳は楽になった部分がある。日本作家のSFが優れている要素はあって、和歌からの古い文学の歴史があってそこに新しいことが合わさって面白いものが生まれる期待がある。機会があれば日本のSFを海外に紹介したい。」
 高野「ペレストロイカ以降の東欧SFを紹介したいことから沼野さんの協力もあり『時間はだれも待ってくれない』が実現した。一方で自分の小説が英語・イタリア語に翻訳される経験もした。東欧・ロシア・アメリカ・イタリアと仕事をする経験をした。イタリアの文学事情は悪く数百部レベル。SFとなるとさらに困難。東欧の各国は人口が少なく、翻訳家も少ないので日本の作家の作品について興味は持ってもらえても実現が難しかったりする。現実的には翻訳を増やすには作家は自らの作品の英語からの重訳を許容するというような考え方も必要かもしれない。東欧とロシアを一緒に考えてしまうところが日本人の一部にあるかもしれないが、東欧とロシアは大いに異なり、東欧とのやり取りにトラブルは全くなかったがロシアでは普通には考えられないようなトラブルが発生したりする。アメリカも難しい国で、分かりやすさのためにカットしようとしたり、ことさら日本趣味を求められる傾向があったりする。日本人作家がヨーロッパを舞台にしている作品を書くようなタイプのもの、一種の面倒くさいものを忌避する傾向はどこの国に有るのかもしれず残念。SFは奇抜なものあり得ないものを描くので、そういった抵抗感を薄めるのに有効なのかもしれない」
 この後上記の重訳の問題についてディスカッションがあったが、やはり重訳は問題で良くない譲歩しても必要悪、といった評価だった。

第2部「歴史、日本、この不思議な地球」
 司会

  巽孝之(SF評論家、慶應義塾大学文学部教授)

 出演

  谷甲州(SF作家)

  夢枕獏(SF&ファンタジー作家)

  呉岩(Yan Wu、中国のSF作家)

  ドゥニ・タヤンディエー(Denis Taillandier、フランスの日本文学研究者、立命館大学嘱託講師、追手門大学非常勤講師)
  パット・マーフィー(アメリカのファンタジー・SF作家)
  パオロ・バチガルピ(アメリカのSF作家)
  
  谷「『日本沈没第二部』の執筆で小松左京と直接意見を言い合えるようになり、小松のコスモポリタニズムと意見がぶつかるようなこともあった。小説内の総理VS外務大臣のところはその時の小松VS谷を反映したもの(※このように聞えたのですが、未読なので良く分かりません)。科学の進歩がある現代において、歴史は繰り返すという言葉がどういう意味を持つのか考えている」
 夢枕「心の師と言える人物は二人いて空海宮沢賢治(もとはアントニオ猪木も入っていたが数年前から外れた)。この二人は人間と宇宙を見つめていて、どこの地に生まれていても空海であり宮沢賢治であっただろう。空海は日本最初の世界人。そこには大日如来があっただろう(宇宙の基本原理)。密教を日本に持ってきた。人間の欲望を肯定している教義すら認めていた(立川談志いうところの<業の肯定>に近いのでは)。高野山に行くと面白い。『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』の中国での映画化によって、壮大な製作現場に出会うとその製作を下働きでもいいから手伝いたくなり、ピラミッドの建設に立ち会った奴隷の気持ちが分かるような気がする。彼らは奴隷であっても誇らしかったに違いない。」
 呉「日本SFを中国で売るにはどうしたらいいかと考えた。1.中国市場を知らない 2.出版社の問題 3.作家の交流の問題 がある。1についてSF翻訳では3大出版社がある。2について版権の問題があり、一人の作家について複数の出版社とコンタクトしなければならない(※版権の問題は詳しくないのでこれも十分には分からず)。3について日本の作家はもっと中国を訪問し交流して欲しい。翻訳の出来は非常に重要。パオロの訳は良く人気が出たが、パットの作品の翻訳は良くなかったので人気が出なかった。」
  タヤンディエー「フランスの日本アニメ受容の歴史。ヤマト、コブラハーロックが人気があった。グレンダイザーは大ヒット。しかし90年代に暴力表現規制で激減。マンガという言葉は当初は女性名詞だったのが男性名詞。美人画のイメージから日本の経済成長により変わったのかもしれない。筒井康隆沼正三夢野久作安部公房が評価されている(※会場から御本人の趣味との声あり)。重訳ではあるが出版される『ハーモニー』がどう評価されるか楽しみ。」
 マーフィー「今回の訪問でアメージングだったのは、SFの定義についてのパネリストたちの意見。北野勇作さんは『SFの定義なんか興味が無く、モンスターが書ければいい』といっていた。私は『魚は水に気づいていない』という言葉を考えます。マンガもアニメもカフカカルヴィーノマーク・トゥエインもSFだと思う。悲観論もあるが、こういった世界的な対話は始まったばかりで可能性に期待している。」
 バチガルピ「自分の作品は暗い未来を描く。そこに人間がどう適応していくかに興味がある。例えば『日本沈没』のような状況が起こり移民が生じると、国どころか世界の問題になるだろう。SFの役割は新しい神話をつくることだ。それにより世界が変わるのではないか。(『ねじまき少女の出版について)タイを舞台にした日本人やマレー人が登場する様な小説で、出版社は当初消極的で苦労したが、何とかこぎ着けた後の反響は大きく成功に至った。」
 マーフィー「(積極的なサポートが得られにくい内容の作品では)小さい出版社の果たす役割は大きい。」
 夢枕「媒体は時代により移り変っていくが、我々作家はものを作る第一次産業だと思う。だから滅びることは無い。」
 

 最後の締めにグッときました。出版、特にユニークなものには厳しい時代ながら全体的に前向きな話が随所にみられたところがよかった。それぞれの方持ち時間では伝えきれない、といった感じでもっともっとお話を聞きたかった。また各地テーマやパネリストが異なっており、状況が許せば全部聞きたいぐらいだった。
 貴重なイベントに参加できて嬉しい(しかも無料ですからね〜)。司会、ゲスト、スタッフの皆様ありがとうございました。
 

『4522敗の記憶』 村瀬秀信

 何でこんなチームを応援しているのだろう。
 当レビュー人も子どもの頃から地元チームであったホエールズを縁あって応援するようになってから何度となくそう思ってきた。とにかく弱い。群を抜いて弱い。たまにいい時期が来ても長続きせずすぐにダメになってしまう。本当に応援するのが馬鹿馬鹿しくなる。
 単なるスポーツ、それも一球団のことではないか。プロ野球観戦をしたいのなら他のチームを応援すればいい。こんな希望の見えないチーム見捨てればいいではないか。何度も考えたが、やはり気になる。あまりの惨状にさすがに冷ややかに眺めていた90年代中盤いきなり状況が変わりなんと98年には優勝をしてしまう。うっかり勘違いしまたズルズル応援することになってしまい、再び馬鹿をみているのが現状だ。いわば呪いのようなものだ。
 本書はそんなファンの心にストレートに響いてくる稀代のホエールズベイスターズ本だ。著者は1975年生まれの野球ライターで、ネットマガジンでもベイスターズについてコアなコラムを書いていて愛読していた。満を持して多くの関係者にインタビューを行い時には聞きにくいことまで質問をし、本書を仕上げた(情報量はあと5冊書けるくらいあるらしい→ http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130723-00000607-playboyz-base)。まずは構成が上手い。歓喜の98年からあっという間に奈落の底へ転落する経過を追い、その負のスパイラルの原点であるホエール時代にスポットライをあてる。熱くチームの歴史を探求した結果は正直ファンには残酷とすら思える結論に至る。このチームに染みついた暗黒体質はどんな改革を行おうと取り除けないかもしれないぐらいに根深いもので、著者が鋭いのは長年弱過ぎたためファンまでネガティブにチームの足を引っ張ってしまう様子さえ描いている。
 なぜそれだけ弱いのか。今までファンが悪者と考えていた人物たちも重い口を開く中で分かったのは必ずしもみなチームのことを考えていなかった訳ではないことだ。多くの選手、関係者は体を賭してチームの強化に取り組んできた。それでも内紛は起こり、功労者の首は切られ、チームは浮上しない。これは宿痾なのだろうか。
 そんなチームを見つめる著者の眼差しは熱くそして優しい。悲しいダジャレを交えた文体によって描かれるベイスターズは思うようにならぬ我々そのものようにも思え、そして最後の一文に涙が流れる。
 何?今日も負けたって・・・・。

ディスカバリーチャンネル<SF界の巨匠たち>第八回ジョージ・ルーカス

 最終回はルーカス。もちろんスター・ウォーズ(特にエピソード4〜6)の話が中心。ちょっと悪い予想が当たってしまった回。
 本人の伝記的なエピソードとしてはスター・ウォーズの映画企画がなかなか通らなかった話や交通事故の話などが登場するくらいで割と少なめ。科学技術との関連では、作品内で登場するホログラムと現在の映像技術、フォースによる意識操作と脳科学、フォースとダークマタ―、R2-D2と自動運転技術、ルークの負傷と医療技術、ポッドレーサーと超伝導といった内容。
 これまでも現実の技術と結びつけるのに多少無理があったりした本シリーズだが、ルーカスは本シリーズの他の小説家たちと異なり映像作家であるわけで、その功績はそれまでにもあったSFアイディアを抜群の映像センスとエンターテインメント性で鮮やかに見せたところで、アイディアの全てが彼のオリジナルかのように見えてしまう演出はいただけない。たしかに技術開発者たちは口を揃えてスター・ウォーズがきっかけというんだが・・・。あと「二重太陽の描写は最初科学者は批判的だったが、その後間違いを認めた」なんていうエピソードをミチオ・カク紹介するんだけどホントなのかなあ(少なくとも二重太陽のアイディアは前からあると思うので別にルーカスのところで言及しなくてもいいように思うけど)。
 まあSF小説に特に興味が無くてもスター・ウォーズの関連番組として見る人は多いだろうから単独の軽い科学番組としてはそれほど悪くない。

 

 ジュール・ヴェルヌの回を見逃したのは痛恨だったが、上に書いたツッコミ要素はあるものの全体としては映像よし内容よし時間もコンパクトでとっつきやすく楽しめるシリーズだった。ただ第七回にハインラインは懐疑的だったという言い訳をつけながらもアルコー財団の話を登場させた箇所はあまり感心しないが。

『土佐日記(全)』 紀貫之 西山秀人編

 古典。元々は京に住んでいた官吏が土佐の国司を勤め、任期を終えた後五十五日間かけて帰京する様子を侍女の視点から書いた日記文学というもの。
お付きのものを沢山引き連れる大移動である一方、貧乏官僚であることから旅には様々なトラブルが待ち受けている。天候や縁起担ぎにより思うように進まないわ、楫取(かじとり)は欲張りだわ、体調は悪くなるわ、贈りつけられたものへの返礼でけち呼ばわりされるわ・・・。その現代人にも共通する愚痴っぽいノリが和歌を交えたゆったりとして流れで語られる。時代が移ってテンポは違っていても、人の思いは変わらないのだなあと感じる。何よりも失ってしまった子どもについての悲しみがしんみりと胸に染みる。
 角川文庫のこのシリーズは以前に読んだ「平家物語」もそうだったが現代的な切り口で非常に分かりやすく解説されており、本書でも「土佐日記」をブログになぞらえる視点から一般読者に馴染みの薄い当時の文化をコンパクトに平易に紹介していて初心者には助かる。

映画‘ビル・カニンガム&ニューヨーク’

 

急に予定が変わりちょっと時間が空いたので短めの映画を観た。東京都写真美術館初めて入ったが、映画もやってるんだな。
 内容は82歳になるニューヨークの現役ファッション・フォトグラファー、ビル・カニンガムについてのドキュメンタリー。ファッション・フォトグラファーというと最先端のファッション業界を闊歩する華やかな職業と思われるが、どうもこの御仁ひと味違う。その世界では既に高名な人物で(フランスで文化勲章をもらうシーンもある)、そういったファッションリーダーの世界でも知己の人物ばかりである。が、一方でモデルやセレブリティとは対極にあるニューヨークの一般市民のストリートファッションを取り上げ50年以上も雑誌で連載を続けているという仕事もこなす。つまりファッションのメジャーとマイナーの両方に通じたニューヨークファッション史の偉大な生き証人ともいえるような存在なのだ。しかもそのプロのファッションとアマチュアのファッションを分け隔てなくフラットに切り取ることの出来るという稀有な人物ということらしい。有名無名を問わず興味を惹かれたものは賛辞を惜しまず、一方惹かれなければ取り上げもしないという姿勢は徹底している。例えば最新のファッションのモデルとそれを自分なりに着こなしている一般人の写真を彼自身が邪気なく並べたことがあり、その時に実際の記事では編集部にその一般人を揶揄する様なコメントを勝手につけられてしまうようなこともあった。意図していなかった結果に傷ついた彼は以後他人に編集させることを拒み、「金を受け取らなければ文句を言われない」との考えから余計な金は一切受け取らないようになったという具合である。しがらみなく純粋な形で批評したいという信念からの金銭への潔癖さは、ファッション業界のパーティには数多く出席しながらも水すら飲まないというところにも現れている(その場での写真は撮りたいために出席はマメにしている)。こうした姿勢は若い頃に培われたようだ。若い頃帽子の店をやっていて、その時金銭トラブルがあって家族に迷惑をかけたことがあり、その経験が金銭に潔癖になった大きな理由となったようだ。
 いたってファッション求道者的な人物である彼は、いつも作業着で町を自転車で乗り回し自らのファッションに無頓着なだけではなく、食事もいつも安い食堂で短い時間でさっさとすまして仕事に戻るようなワーカホリックである。全く恋愛を経験したことがないという発言もあり、いわばDT偉人伝といった要素もあるドキュメンタリーだが、日曜日に必ず教会に行くという敬虔なキリスト教徒(カソリック)の一面がそうさせているのかもしれない。
 ファッションの華やかな世界で純粋に美を追及してきた人物のあまりにストイックな姿が強烈だった。「ファッションは現代で生きるための鎧である。もしファッションを失ったら文明の喪失だ。おかしなことを言っていると思われるかもしれないが、そんなことを考えているんです。」と謙虚に語る言葉が印象的だ。ちょっとだけスタジオ54やウォーホルの話も出たり、現代ニューヨーク文化史としても多々見どころがあり、面白い映画だった。

※7/22本人のコメントのところを急に思い出したので直しました(笑)

※2013 11/24ふと読み直したら文章が色々変だったので、修正しました。

ディスカバリーチャンネル<SF界の巨匠たち>第七回ロバート・A・ハインライン

 

気を取り直して今回はハインライン
 ヴェルヌ・アシモフ・クラークといった皮肉めいたところのない大御所に比べハインラインには「危うさ」あり、その著作には20世紀初頭のアメリカでの不況やヨーロッパでのファシズムの台頭といった社会の影が反映されている、とリドリー・スコット
 1939年軍人・政治家の道に挫折し住宅ローンに追われしかも仕事が見つからなかったハインラインSF小説コンテストに応募することを思いつきSF作家となる。デイヴィッド・ブリンは「犯ラインは矛盾を抱えた典型的なアメリカ人。個人主義自由主義者であったが、個人が社会に果たす役割を信じ、民主主義における軍隊の重要性を感じていた。民兵が担う民主社会を理想としていた。」という。
 ハインラインは貧しい家庭の出身で軍隊でトレーニングを受け退役後もメンタリティは軍人であり、徹底した自立精神と反共主義が作品中にみられる。作品「人形使い」は人間を操る異星人の脅威が描かれるが、共産主義への恐怖が色濃く反映されている。現在の科学技術でも、外部からの力により道徳観に影響を与える研究が進んでおり、強力な磁場を利用した脳への干渉実験が行われ脳の一部を刺激することで善悪の判断を変えるというデータがある。
 ソ連大陸間弾道ミサイルの開発などの軍事脅威を軍事小説に著していたハインラインは、以前に居住していたロサンゼルスが核攻撃の標的となっていたことから1958年にコロラドスプリングスに転居する。しかしその8年後NORAD北アメリカ航空宇宙防衛司令部)の同地への設置により、再び核攻撃が身近に迫ったことからハインラインは核シェルターをつくる。そうした時期が反映されているのが異星人との戦いを描いた「宇宙の戦士」(1959年)。「公民権は獲得するものだ」という考え方が作品の根底にあり、基本的には「悪は滅ぼせ」ということでもあり、戦争を美化する要素があり、物議を醸すことになった。この作品に登場する戦闘用強化防護服=パワードスーツは、外骨格を強化する技術を予見していた。奇しくも戦闘中の事故で四肢麻痺となった元軍人が作中のパワードスーツにヒントを得て、足の不自由な人が歩けるようになる「ライフスーツ」の開発をしているというエピソードが触れられていた(「自分にとってハインラインの小説は、空想ではなく予言だ」といっていた)。
 物議を醸したハインラインだが1961年には本人が「一神論と一夫一婦制」のタブーに挑戦したという個人の自由を描いた「異星の客」を発表、今度はヒッピーの聖典となる。ハーラン・エリスンによると「ヒッピーが貢物を持ちひっきりなしに訪れるために電気フェンスを設けることになった」そうである(ホンマカイナ)。
 1956年の「夏への扉」では冷凍睡眠による時間の超越が描かれる。そしてなんとアルコー財団の話が出てくる(このいわくつきの団体についてはこんな本が。未読です)。普通に扱われていたがどうなの・・・。
 月や宇宙開発への強い関心もハインラインの特徴である。これは1946年にアメリカ政府の極秘長距離ロケット実験に立ち会った時の衝撃がきっかけである。「月は無慈悲な夜の女王」は月植民地が地球からの独立を目指す話だが、現在月基地製造の技術開発が進められている(もちろん巨大な物ではなく中身もまだ基本骨格だけのようだが実際に使用できるレベルのようで映像的インパクトがあった。)。
 1970年代に健康を損ない、頚動脈の手術を受けるなどするが、その後もコンピュータ社会の危険を予見した「フライデイ」を発表する。
 1980年代また当時ジェット推進研究所にいたSF作家ジェリー・パーネルにより、米政府のレーガンの軍事極秘計画にアーサー・C・クラークらとともに参加することになる。ハインラインの提唱した「地球軌道に兵器を設置する」というアイディアはいわゆる<スターウォーズ計画>に影響を与えミサイル迎撃の計画に引きつがれている(主にジェリー・パーネルが語っていたが、どの程度ハインラインレーガン軍事計画に関与していたよく分からなかった。ちなみに左派からみるとこんな風な表現になる)。
 まとめとしては「ハインラインは社会SFの父。社会への責任と自由への代償を問いかけた」。

 長距離実験の目撃、軍事体験、共産主義の脅威などが作品に反映されていることを考えると、クラークあるいはディックなど傾向の違う作家たちの奇想天外な小説の数々が実際は20世紀という時代のある側面から見た現実が描かれていたのだなあと改めて感じた。ハインラインはいわゆる1950年代SF黄金期の代表的な作家の中ではある意味最も複雑で多面的な人物でこのシリーズでは(未見のものを除くと)内容も一番バラエティに富んでいた。ストーリーテリングや小説の面白さから離れると、その思想的な部分は日本のファンには共感しにくい面が多々あるように思われる。その分、SF的な発想の源、特にアメリカ的なものを考えていく上でキイとなる人物なのではないかという印象が強い。

映画‘真夜中のカーボーイ’

 

 どうしても「カーボーイ」っていうと個人的にはエキセントリック少年ボウイが思い浮かんでしまうんだが、有名なこの映画の邦題がそうだとはこれまで不覚にも知らなかった。
 
 苦い青春の喪失を描いた作品というイメージがあって、重苦しいだろう内容から敬遠していたが、最近シブいチョイスで注目されている新橋文化でやると知り予定が空いていたので観てきた。

 テキサスからニューヨークへジゴロとしての成功を夢見たカウボーイのジョーは、思うままにならぬ孤独な都会生活の中、マイアミへの移住に憧れるコソ泥のラッツオと同居生活を余儀なくされる。どん底の暮らしの中でチャンスを掴みかけるが・・・。

 へヴィな話という点は全く予想通り、いや予想以上で実現不可能な成功を夢見る二人はイタく青くナイーブな二人の心の動きが一層心に突き刺さり、本当に心が痛くなる。あまりに非現実的に夢見がちな二人にはもうオッサンになってしまったブログ主には正直共感することは難しい。ただ、イメージショット的に描写されるジョーの過去(祖母の溺愛とそれに反しながら共存する虐待や恋人との不幸な別離が示唆される)から年上の女性の庇護を求めるような仕事を選んでいるところは周到に描かれている。また1969年当時は旧来の価値観による束縛はアメリカでも非常に強かったことが推察され、時代的にはエイズ以前の性解放の時代ということでもあり、田舎を後にしてジゴロとして大都会ニューヨークで成功を夢見るという妙な青年の話も当時の若者には強い共感を覚えるものだったに違いない。
面白かったのは終盤のディスコ・クラブ文化の先駆けのようなパーティのシーン(やっぱりウォーホルのファクトリーのスーパースターたちがカメオ出演しているようである)。当時のニューヨークの空気感が分かる。一方テキサスやマイアミの描写も同時代のアメリカを伝えてくれて、むしろそちらの方に惹かれたというのが正直なところだ。いずれにしても歴史に残る作品であるのは間違いなく観て良かった。
(本当は併映の「コック・ファイター」も観たかったんだけど時間がなくて・・・とほほ)